2016年5月10日火曜日

初夏のチャペルコンサート2016のご案内

2016年6月12日(日) チャペルコンサート 14:00~

私たちの教会では、毎年ゲストをお迎えして、コンサートを行っております。
今年のゲストは、岩渕まことさん、由美子さんご夫妻です。
お二人の素敵な演奏と歌声と共に、心癒される楽しい一時を共に過ごしませんか。
皆様のご来会をお待ちしております。




2016年5月6日金曜日

自我を捨てるとは

いくつかの宗教の教えの中には、自我を捨てると言う考え方があります。
例えば仏教ならば、何かに対する執着を捨てること、そうすれば心が楽になると言った具合です。
そしてキリスト教の牧師先生の中にも、自我を捨てるようにと語る人もいます。

では、聖書の語る、「自我を捨てる」とはなんでしょうか。
人間は罪人だ、だから自分の心を何もかも捨ててしまって、神様言うとおりにすれば良いのでしょうか。
そうではありません。自我自体はそもそも神様が私達に与えて下さったものであり、良いものです。
ですから、悩んでしまうことも、不安になってしまうこともあるでしょう。

聖書に言葉には、こんな言葉があります。
「すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」 (新改訳、 コロサイ人への手紙 3章5節)

私達が捨てるべき部分と言うのは、自我の全てではなく、悪い欲、むさぼりの部分を捨てる事です。このような意味で、自我を捨てなさいと語ることが多いでしょう。
誤解を招かないためにも、単純に自我を捨てると言うよりも、「悪い欲の自我を捨てる」と言った方が良いかもしれません。

そしてもう一つ、自我を捨てることの意味として、大切なことがあります。
聖書の言葉にある、ローマ人への手紙 12章には、このようなことが書かれてあります。

 喜ぶ者と共に喜び、泣く者ともに泣きなさい。

 高ぶった思いを持たず、身分の低い者に順応しなさい。
 悪に悪を報いる事をせず、全ての人が良いと思う事を図りなさい。
 あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。
 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

などなどです。
つまり、聖書の語る自我に死ぬということは、具体的には、「敵を愛する」という事でしょう。

聖書が私達に語っているのは、「敵を愛せない自我を捨てる」ことなのです。

2016年4月19日火曜日

何を食べていますか

私達は何かを食べて生きています。生きるために食べることは当然ですね。

そして、私達は普通、何でも好きなものを食べて良いのではなくて、体の健康を考えて食べています。料理を作るにしても、食べるにしても、家族の健康のこと、自分の体の事を考えて、食材選びから食べる量など、毎日のように気を配っています。
なぜなら、普段口にするものが体の健康に関わってくると知っているからです。
年を重ねても、ずっと健康でいて欲しいと願います。

人によって差異はあれど、殆んどの人が体の健康に気を配っている訳です。
ところで、皆さんは体の健康に気を配るほどに、自分の心の成長に気を配っているでしょうか?


普段の生活の内、心を養うためにどれ程のことを普段考えて、心の為に何を取り入れようかと考えているでしょうか。見せかけではなくて、本当に心の内から出来る言葉遣い、親切心、身振り、表情、会話の仕方、などなど。これは私の心に取り入れない方がいいぞ、これは是非私の心のために取り入れたいと、皆さんはどれだけ考えて生きているでしょうか。

私達が心に取り入れるものによっても、私達の人格は形成されていきます。
しかし、実際は、体の健康のことに対しては良く気を配るのに対し、同じように大切である心のことに関しては余り気を配っていないという人が殆どではないでしょうか。

もし、あなたの心の中に、人としての不健康なものがあるのならば、あなたにとって本当に必要なものを取り入れるようにしていって下さい。



皆様の心が、神様に愛される心へと変えられますように。

2016年4月1日金曜日

子どもイースター

今回は久しぶりに、イベントのご報告です。

土曜日に、子供向けのイースターを行いました。
今回はいつもとはちょっと趣向を変更して、『謎解き宝探し』~幻のゴールデンエッグを探せ~ を開催しました。

賛美と、イースターのお話、そして謎解き宝探し。
宝探しの内容は、いくつかの謎(暗号やクイズ、道具を使った謎)を解き明かし、
宝物(ゴールデンエッグ)を手に入れると言うもの。

かんたん、ふつう、むずかしい問題と、3つのチームに分かれて挑戦してもらいました。


 最初は解けるかな?と心配でしたが、なんとか楽しく問題を解いていました。
集合写真で見事ゴールデンエッグを手にした子達。
残念ながら、難しい問題に挑戦した中学生は惜しくもタイムアップ。次回に期待しましょう。

ちなみに、ゴールデンエッグの中身は・・・・
手作りの「チョコエッグ」です。
まだ手に入れていない皆さん。 来年も待ってますよ。

2016年3月17日木曜日

聖書が語る箴言

現在、私達の教会では、水曜日の祈祷会に箴言を読んでいます。
箴言とは、聖書の中にある、一つの書巻のタイトルのことです。
箴言と言うタイトル通り、そこには教訓となる言葉がたくさん書かれています。

聖書の箴言をどなたが読んでも、なるほど、その通りだなあと、感じて頂ける言葉もたくさんあるのですが、これを、一般的な道徳のように受け取るのか、それともクリスチャンに対して言われている言葉として受け取るのかによっても、違ったものになってきます。
受け取る側の違いということではなく、本来聖書は神の言葉として語られていますから、人間的価値観でその通りかどうかを判断するのではなくて、神様の語る真理となる知恵を聞くということになります。

例えば、箴言には、「魂を楽しませる知恵を得よ」というような事が書かれています。
これを一般的な道徳に当てはめて考えると、「人生を楽しむためには色々な能力を身につけよ」 と言ったことになるでしょう。
しかし、聖書の語る魂を楽しませる知恵は違います。
聖書はむしろ、イエス・キリストがそうであったように、人を赦し、平和と和解を選ぶことができる知恵を持つように語っています。自分が愛されるためではなく、「他者を愛すること」。
これこそが、「魂を楽しませる知恵を得よ」ということなのです。

2016年2月23日火曜日

あなたの青春っていつですか?

以前、メッセージの中でこんな話をしたことがあります。


仮に、青春とは、人生の中で一番輝いていた時期とします。

すると、みなさんにとっての青春とはいつでしたか?
ほとんどの方が、若い時を青春だったとお答えになるでしょう。
では、クリスチャンにとっての青春とはいつになるのでしょうか?

クリスチャンにとって年齢を重ねるという事は神様からの祝福です。
聖書から真理や神の愛を教えられ、そして日々成長させられて行きます。
そして、神様とますます親しい関係を築いていきます。
つまり、クリスチャンとしての人生を歩めば歩むほどに、成長や恵みが積み重ねられて行くはずです。

と、するならば。クリスチャンにとっての青春時代とはいつか、と問われるならば、「今がまさに青春だ!」と言うことができます。
1年前よりも、10年前よりも、今のクリスチャンとしての生き方の方が、神様が喜んでくださっている。そんな生き方をして行きたいですね。
そうすれば、クリスチャンとしてもますます輝けるのではないでしょうか。

年を重ねることって、本来、素敵なことなんですよ。

2016年2月12日金曜日

何を恐れるか

みなさんは、どのようなものに恐れを感じますか?
 タイトルは「何を恐れるか」ですが、ここで言う恐れとは、お化けと言った類や、戦争や暴力などによる恐怖のことを聞いているのではありません。
人の目が気になったり、年齢による衰え、将来に対する不安などのことをお訊ねしています。
中には警察を見ただけで、なぜだかドキッとしてしまうことがある人もいるかもしれません。

私達が何かに対して恐れを抱くとき、それは自分の心がどこにあるのかを意味します。
別の言葉で言えば、自分が何を大切にしているかによって、抱く不安の所在が決まって行きます。

聖書には、神を恐れるようにという事が語られています。
「主を恐れることは知識の初めである。」と書かれてある聖書箇所もあるくらいです。
神を恐れるとは、神を神とすることとも言えます。神を認め、信じ受け入れ、罪から離れて生きることです。神を恐れない人は、神の言葉や真理を拒否します。

クリスチャンと言われている人であっても、神様を中心にしていなければ、罪を軽く見て、また罪人としての道を歩んでしまいます。するとどうなるか。神様よりも、世間体や人の目を気にして、自分の事の為に一生懸命に生きる事を選択します。


なぜこのようなことが起きるのでしょうか。
神を中心にすると、神を恐れます。しかし、自分を中心にすると人を恐れます。
つまり、自分を中心にすることが罪を犯すことになるのです。
相手を愛することをやめる事、自分さえ良ければといった行動をとる事、弱者に目を向けない事、思いやらない事などなどが、自分を中心にすることであり、そうすることで、結果、人の目を気にしたり、聞く耳を持たないで人から何か言われることを避けようとしたり、警戒心、懐疑心を持つようになるからです。

むしろ、神を中心にする人は、聖書の語る真理を守ろうとし、人を助け支えようとします。
不満を抱かないという事ではなく、愛することを決してやめないということです。

もし、自分の内に、人に対する恐れを抱いているのであれば、それは自己中心がどこかにあるのかもしれません。何も悪いことがないのであれば、堂々と生きることができるはずです。
本当に神を恐れている人は、そのように、堂々と生きることができる人だと言えるでしょう。

あなたは何を恐れていますか?