2018年8月22日水曜日

罪の利息

今日は私が日々読んでいる聖書の言葉の中で、ふと考えさせられたことをお分かちします。

今朝読んだ聖書箇所は、エゼキエル書18章でした。(聖書には創世記だとか、ヨハネの黙示録といった書簡があり、エゼキエル書はその一つです。)
その中にこんなことが書かれてありました。
「人が正しいものであるなら、公正と義を行う。・・・・利息を付けて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる。」

この18章はまず最初に、誰かが原因であなたの罪が問われるのではなく、あなた自身の行いに対して自分の罪が問われると言っています。ですから、確かに何かの原因で怒ったり、憎んだりすることはあるでしょうが、でも相手を憎むかどうかは自分自身の問題でもあります。その上で気に留めたのが、「利息を付けて貸さず、高利を取らず」という部分でした。

私はこの言葉を文脈から、私の持つ罪について考えさせられました。
私はいつまで誰かのことを憎み続けているのだろう。相手が犯した罪のことについて、いつまでも憎しみと言う利子を付け続け、相手が犯した罪以上の高利な償いを求めてしまうのだろうか、そんなことを考えさせられたのです。 この聖書の言葉はただ単に外側の行動のことを言っているのではなく、内面の、そして罪性のことについて問いかけている。そしてこのことは公正と義ではない私の罪性を浮き彫りにさせます。

聖書はさらに続けてこう書かれてあります。
「わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる。」
私達は自分の考えや人間的な正しさに頼るのであれば、人を赦し、愛することはできません。本当に正しく生きていくためには、私達はただ神様に従い、神の義に従って生きる必要があります。 それ以外にはありません。神を信じ従って生きる人が、神にあって正しいものとして罪赦され、必ず生きると言われます。
神様あなたに頼らせてください、正しく私を導いて下さいと今日も願います。