いくつかの宗教の教えの中には、自我を捨てると言う考え方があります。
例えば仏教ならば、何かに対する執着を捨てること、そうすれば心が楽になると言った具合です。
そしてキリスト教の牧師先生の中にも、自我を捨てるようにと語る人もいます。
では、聖書の語る、「自我を捨てる」とはなんでしょうか。
人間は罪人だ、だから自分の心を何もかも捨ててしまって、神様言うとおりにすれば良いのでしょうか。
そうではありません。自我自体はそもそも神様が私達に与えて下さったものであり、良いものです。
ですから、悩んでしまうことも、不安になってしまうこともあるでしょう。
聖書に言葉には、こんな言葉があります。
「すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」 (新改訳、 コロサイ人への手紙 3章5節)
私達が捨てるべき部分と言うのは、自我の全てではなく、悪い欲、むさぼりの部分を捨てる事です。このような意味で、自我を捨てなさいと語ることが多いでしょう。
誤解を招かないためにも、単純に自我を捨てると言うよりも、「悪い欲の自我を捨てる」と言った方が良いかもしれません。
そしてもう一つ、自我を捨てることの意味として、大切なことがあります。
聖書の言葉にある、ローマ人への手紙 12章には、このようなことが書かれてあります。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者ともに泣きなさい。
高ぶった思いを持たず、身分の低い者に順応しなさい。
悪に悪を報いる事をせず、全ての人が良いと思う事を図りなさい。
あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
などなどです。
つまり、聖書の語る自我に死ぬということは、具体的には、「敵を愛する」という事でしょう。
聖書が私達に語っているのは、「敵を愛せない自我を捨てる」ことなのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿