2018年12月7日金曜日

クリスマスメッセージ

ルカの福音書2章11節
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

皆さんは今まで、もう早く言いたくて仕方がなかったと言う時がありましたか。例えば初めて子供ができた時の妻は、夫がどんな顔をするだろうかと思いながら、早く子供ができたことを言いたくて仕方がないのではないかなと思います。
冒頭の聖書箇所は天使が野宿の番をしている羊飼いたちに「赤ちゃんが生まれましたよ」と告げ知らせる時の言葉です。おそらくこの時の天使も、もう早く言いたくて仕方がなかったと思うんですね。
イエス様がいよいよ生まれる、その時を待っていて、生まれる、生まれるよ、・・・・生まれた!と、この瞬間に天使が野宿をしていた羊飼いたちの所に輝き現れた。そして天使が言いたくて仕方がなかったことを喜んで告げ知らせます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」天使は喜びに満ち溢れたとっても美しい笑顔だったと思います。

この言いたくて仕方がなかったうれしい知らせは誰に届けられていると思いますか。立派な王様にでしょうか、誰からも愛されている人にでしょうか、それとも清らかな人にでしょうか。ここでは羊飼い達に知らせが届けられています。天使がずっと言いたくて、言いたくて、仕方がなかったこの言葉、喜んで伝えたかった言葉は羊飼いたちに届けられました。
なぜ羊飼いだったのでしょうか。羊飼いたちはどんな人でしょうか。彼らは貧しい人達でした。また、ずっと羊の番をしているので、礼拝をするという事などがなかなかできない人達でした。ですから、当時の羊飼いたちはユダヤ人社会の中でどのように見られていたかと言うと、無知な人、汚れているもの、罪人と言うように見られていました。
つまり、神様は心においても貧しい人たちに、罪人と言われている人たちにイエス様の誕生が知らさたという事なんですね。これは全ての人に伝えられているという事でもあるのです。

あなたがたのために、私達のために誰が生まれたのでしょうか。それは救い主です。救い主と言うと、私達を罪から救ってくださる方ということです。私には罪がないと本当に言える人は誰もいないでしょう。罪って認めたくないんですけれども、認めざるを得ない現実が自分の中にありますね。イエス・キリストのことを心から救い主と呼ぶためには、自分が罪人だと言う認識がなければなりません。私が罪人であり、神に敵対しているという認識があって、はじめて、この方はあなたにとっての救い主になります。
人はもし借金をするならば、そのお金を返さなければなりません。罪を犯すなら、その代価を支払わなければなりません。
聖書によりますと全ての人は罪人であって、私達は自分の持っている罪のために、罪の呪いのもとに生きなければならないのです。最終的には罪の代価は死ぬことです。私達は自分の罪のために死ななければならない者です。
罪の恐ろしさと言うのは、自分で自分を殺してしまうようなものです。私はダメだ、私は弱い、私は神様に愛される資格がない、誰にも愛されない、誰の役にも立たないと、こんな風に思い込んでしまう。これこそが罪による恐ろしい結果でもあります。

でも、今日、神様が知らせてくれたのは、神様がすべての人の罪を赦すため、全ての人の救い主としてこの地上に来られたことです。ご自分が十字架で死なれ、私達の代わりに血を流され、いのちを捨てて下さって、あなた方は自分を十字架に付けて苦しまなくていい、自分を恥じなくていい、自分を殺さなくていい。あなたは私によって豊かな命を得るのです、喜びの人生を生きていくのです、永遠のいのちを受けるのだと語ってくださるのです。イエス様はあなたを罪から救い、死の呪いから贖うために来た救い主です。

「この方こそ主キリストです。」
キリストとはなんでしょうか。キリストとはメシヤと呼ばれる救い主のことです。このメシヤというのは、たった一人だけに与えられる称号です。ローマ皇帝だとか、天皇だとか、総理大臣だとかは何代目と言うものが付きますが、メシヤ、キリストと呼べるのはたった一人だけです。つまり、唯一の救いは、唯一あなたを罪の呪いから救ってくれるのはイエス様お一人だけなんですね。
イエス様はあなたの身代わりとして十字架に掛かりました。そして死なれました。もしこの死があなたの為でなかったのなら、ただの無駄死にです。もしほかにも救われる道があったとするならば、イエス様の死は最も愚かで最も無駄な死です。でも、もしイエス様があなたの代わりに死んだのであれば、そしてそれによってあなたが救われたのであれば、イエス様以外に救いの道はありません。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は「今日」とおっしゃっているんですね。ここでの今日と言う意味、それは、すぐにとか、いまこの瞬間、神様の救いを信じたその瞬間なのです。
罪人が救われるまでに、長く待つ必要はありません。もっと良い人になってからでもない、もっと信仰を持ってからでもない、もっと修行してからでも、もっと熱心になってからでもない。キリストの救いを信じたあなたは今日救われる。キリストを受け入れたその瞬間にあなたは救われます。

神様はあなたを愛しています。そして、もし今日、心にイエス・キリストをお迎えしたいという思いをもって求めるなら、イエス様はあなたの心に来てくださいます。どうぞ恐れずに、あなたにいのちと救いと永遠の喜びを与えるイエス・キリストを心にお迎えしましょう。あなたがキリストに一歩近づこうと言う時に、神の今日が来ています。