今週9/11の日曜礼拝は、献堂11周年記念礼拝を行いました。
講師に吉持章先生をお招きしての礼拝と聖餐式、そして午後は「地域伝道の糸口はどこに」をテーマに、研修会を行いました。
礼拝の中では、「私達は御言葉を聞いておわりではなく、応答が必要である。立ち止まり、主こそ神であることを知り、期待して次の言葉を待つ」と、力強い言葉を語って頂きました。
研修会の中では、地域のニーズを知り、教会にできる事を知り、地域社会に対する働きをする励ましを受けました。
新船橋キリスト教会は、地域のために何ができるかという事を考えています。そして神様からの祝福が地域の皆様に現れる事を願っています。
現在では3つの「聖書の学び会」と、集まられた皆さんと共に懐かしい歌を歌う「歌カフェ」を行っています。どの集会も、どなたでも気軽に参加することができます。私達はいつでもどなたでも歓迎しています。ちょっと話を聞いてもらいたい、気になっている事がある、などの些細なことでも、気軽にお声掛け下さい。
2016年9月13日火曜日
2016年6月18日土曜日
2016 チャペルコンサート
今年も、毎年行っているチャペルコンサートが行われました。
今回は、岩渕まことさん、由美子さんの、ご夫妻に来て頂きました。
素晴らしいギターの演奏、歌による夫婦のハーモニー、またトークも含めて、楽しく、そして幸せな時間を感じるコンサートでした。
トークと共に、いつの間にか会場の皆さんと共に歌を歌っていたり、証しに感動したりしながらしていくうちに、神様とともに歩む事の恵みを見させて頂いた、そんなあっという間の1時間半でした。
演奏が終わった後も、自然と拍手が大きくなり、鳴りやまず、その幸せと感謝を表す拍手に導かれて、アンコールが行われました。最後に「God bless you」 を賛美され、みんなが神様の祝福に満たされてコンサートは無事終了。
参加された方々からも、感動した、幸せな気持ちになりましたなどの感想も頂きました。
神様に感謝です。
みなさまもぜひ、来年のチャペルコンサートにお越しください。
今回は、岩渕まことさん、由美子さんの、ご夫妻に来て頂きました。
素晴らしいギターの演奏、歌による夫婦のハーモニー、またトークも含めて、楽しく、そして幸せな時間を感じるコンサートでした。
トークと共に、いつの間にか会場の皆さんと共に歌を歌っていたり、証しに感動したりしながらしていくうちに、神様とともに歩む事の恵みを見させて頂いた、そんなあっという間の1時間半でした。
演奏が終わった後も、自然と拍手が大きくなり、鳴りやまず、その幸せと感謝を表す拍手に導かれて、アンコールが行われました。最後に「God bless you」 を賛美され、みんなが神様の祝福に満たされてコンサートは無事終了。
参加された方々からも、感動した、幸せな気持ちになりましたなどの感想も頂きました。
神様に感謝です。
みなさまもぜひ、来年のチャペルコンサートにお越しください。
2016年5月10日火曜日
初夏のチャペルコンサート2016のご案内
2016年6月12日(日) チャペルコンサート 14:00~
私たちの教会では、毎年ゲストをお迎えして、コンサートを行っております。
今年のゲストは、岩渕まことさん、由美子さんご夫妻です。
お二人の素敵な演奏と歌声と共に、心癒される楽しい一時を共に過ごしませんか。
皆様のご来会をお待ちしております。
私たちの教会では、毎年ゲストをお迎えして、コンサートを行っております。
今年のゲストは、岩渕まことさん、由美子さんご夫妻です。
お二人の素敵な演奏と歌声と共に、心癒される楽しい一時を共に過ごしませんか。
皆様のご来会をお待ちしております。
2016年5月6日金曜日
自我を捨てるとは
いくつかの宗教の教えの中には、自我を捨てると言う考え方があります。
例えば仏教ならば、何かに対する執着を捨てること、そうすれば心が楽になると言った具合です。
そしてキリスト教の牧師先生の中にも、自我を捨てるようにと語る人もいます。
では、聖書の語る、「自我を捨てる」とはなんでしょうか。
人間は罪人だ、だから自分の心を何もかも捨ててしまって、神様言うとおりにすれば良いのでしょうか。
そうではありません。自我自体はそもそも神様が私達に与えて下さったものであり、良いものです。
ですから、悩んでしまうことも、不安になってしまうこともあるでしょう。
聖書に言葉には、こんな言葉があります。
「すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」 (新改訳、 コロサイ人への手紙 3章5節)
私達が捨てるべき部分と言うのは、自我の全てではなく、悪い欲、むさぼりの部分を捨てる事です。このような意味で、自我を捨てなさいと語ることが多いでしょう。
誤解を招かないためにも、単純に自我を捨てると言うよりも、「悪い欲の自我を捨てる」と言った方が良いかもしれません。
そしてもう一つ、自我を捨てることの意味として、大切なことがあります。
聖書の言葉にある、ローマ人への手紙 12章には、このようなことが書かれてあります。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者ともに泣きなさい。
高ぶった思いを持たず、身分の低い者に順応しなさい。
悪に悪を報いる事をせず、全ての人が良いと思う事を図りなさい。
あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
などなどです。
つまり、聖書の語る自我に死ぬということは、具体的には、「敵を愛する」という事でしょう。
聖書が私達に語っているのは、「敵を愛せない自我を捨てる」ことなのです。
例えば仏教ならば、何かに対する執着を捨てること、そうすれば心が楽になると言った具合です。
そしてキリスト教の牧師先生の中にも、自我を捨てるようにと語る人もいます。
では、聖書の語る、「自我を捨てる」とはなんでしょうか。
人間は罪人だ、だから自分の心を何もかも捨ててしまって、神様言うとおりにすれば良いのでしょうか。
そうではありません。自我自体はそもそも神様が私達に与えて下さったものであり、良いものです。
ですから、悩んでしまうことも、不安になってしまうこともあるでしょう。
聖書に言葉には、こんな言葉があります。
「すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」 (新改訳、 コロサイ人への手紙 3章5節)
私達が捨てるべき部分と言うのは、自我の全てではなく、悪い欲、むさぼりの部分を捨てる事です。このような意味で、自我を捨てなさいと語ることが多いでしょう。
誤解を招かないためにも、単純に自我を捨てると言うよりも、「悪い欲の自我を捨てる」と言った方が良いかもしれません。
そしてもう一つ、自我を捨てることの意味として、大切なことがあります。
聖書の言葉にある、ローマ人への手紙 12章には、このようなことが書かれてあります。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者ともに泣きなさい。
高ぶった思いを持たず、身分の低い者に順応しなさい。
悪に悪を報いる事をせず、全ての人が良いと思う事を図りなさい。
あなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
などなどです。
つまり、聖書の語る自我に死ぬということは、具体的には、「敵を愛する」という事でしょう。
聖書が私達に語っているのは、「敵を愛せない自我を捨てる」ことなのです。
2016年4月19日火曜日
何を食べていますか
私達は何かを食べて生きています。生きるために食べることは当然ですね。
そして、私達は普通、何でも好きなものを食べて良いのではなくて、体の健康を考えて食べています。料理を作るにしても、食べるにしても、家族の健康のこと、自分の体の事を考えて、食材選びから食べる量など、毎日のように気を配っています。
なぜなら、普段口にするものが体の健康に関わってくると知っているからです。
年を重ねても、ずっと健康でいて欲しいと願います。
人によって差異はあれど、殆んどの人が体の健康に気を配っている訳です。
ところで、皆さんは体の健康に気を配るほどに、自分の心の成長に気を配っているでしょうか?
普段の生活の内、心を養うためにどれ程のことを普段考えて、心の為に何を取り入れようかと考えているでしょうか。見せかけではなくて、本当に心の内から出来る言葉遣い、親切心、身振り、表情、会話の仕方、などなど。これは私の心に取り入れない方がいいぞ、これは是非私の心のために取り入れたいと、皆さんはどれだけ考えて生きているでしょうか。
私達が心に取り入れるものによっても、私達の人格は形成されていきます。
しかし、実際は、体の健康のことに対しては良く気を配るのに対し、同じように大切である心のことに関しては余り気を配っていないという人が殆どではないでしょうか。
もし、あなたの心の中に、人としての不健康なものがあるのならば、あなたにとって本当に必要なものを取り入れるようにしていって下さい。
皆様の心が、神様に愛される心へと変えられますように。
そして、私達は普通、何でも好きなものを食べて良いのではなくて、体の健康を考えて食べています。料理を作るにしても、食べるにしても、家族の健康のこと、自分の体の事を考えて、食材選びから食べる量など、毎日のように気を配っています。
なぜなら、普段口にするものが体の健康に関わってくると知っているからです。
年を重ねても、ずっと健康でいて欲しいと願います。
人によって差異はあれど、殆んどの人が体の健康に気を配っている訳です。
ところで、皆さんは体の健康に気を配るほどに、自分の心の成長に気を配っているでしょうか?
普段の生活の内、心を養うためにどれ程のことを普段考えて、心の為に何を取り入れようかと考えているでしょうか。見せかけではなくて、本当に心の内から出来る言葉遣い、親切心、身振り、表情、会話の仕方、などなど。これは私の心に取り入れない方がいいぞ、これは是非私の心のために取り入れたいと、皆さんはどれだけ考えて生きているでしょうか。
私達が心に取り入れるものによっても、私達の人格は形成されていきます。
しかし、実際は、体の健康のことに対しては良く気を配るのに対し、同じように大切である心のことに関しては余り気を配っていないという人が殆どではないでしょうか。
もし、あなたの心の中に、人としての不健康なものがあるのならば、あなたにとって本当に必要なものを取り入れるようにしていって下さい。
皆様の心が、神様に愛される心へと変えられますように。
2016年4月1日金曜日
子どもイースター
今回は久しぶりに、イベントのご報告です。
土曜日に、子供向けのイースターを行いました。
今回はいつもとはちょっと趣向を変更して、『謎解き宝探し』~幻のゴールデンエッグを探せ~ を開催しました。
賛美と、イースターのお話、そして謎解き宝探し。
宝探しの内容は、いくつかの謎(暗号やクイズ、道具を使った謎)を解き明かし、
宝物(ゴールデンエッグ)を手に入れると言うもの。
かんたん、ふつう、むずかしい問題と、3つのチームに分かれて挑戦してもらいました。
最初は解けるかな?と心配でしたが、なんとか楽しく問題を解いていました。
集合写真で見事ゴールデンエッグを手にした子達。
残念ながら、難しい問題に挑戦した中学生は惜しくもタイムアップ。次回に期待しましょう。
ちなみに、ゴールデンエッグの中身は・・・・
手作りの「チョコエッグ」です。
まだ手に入れていない皆さん。 来年も待ってますよ。
土曜日に、子供向けのイースターを行いました。
今回はいつもとはちょっと趣向を変更して、『謎解き宝探し』~幻のゴールデンエッグを探せ~ を開催しました。
賛美と、イースターのお話、そして謎解き宝探し。
宝探しの内容は、いくつかの謎(暗号やクイズ、道具を使った謎)を解き明かし、
宝物(ゴールデンエッグ)を手に入れると言うもの。
かんたん、ふつう、むずかしい問題と、3つのチームに分かれて挑戦してもらいました。
最初は解けるかな?と心配でしたが、なんとか楽しく問題を解いていました。
集合写真で見事ゴールデンエッグを手にした子達。
残念ながら、難しい問題に挑戦した中学生は惜しくもタイムアップ。次回に期待しましょう。
ちなみに、ゴールデンエッグの中身は・・・・
手作りの「チョコエッグ」です。
まだ手に入れていない皆さん。 来年も待ってますよ。
2016年3月17日木曜日
聖書が語る箴言
現在、私達の教会では、水曜日の祈祷会に箴言を読んでいます。
箴言とは、聖書の中にある、一つの書巻のタイトルのことです。
箴言と言うタイトル通り、そこには教訓となる言葉がたくさん書かれています。
聖書の箴言をどなたが読んでも、なるほど、その通りだなあと、感じて頂ける言葉もたくさんあるのですが、これを、一般的な道徳のように受け取るのか、それともクリスチャンに対して言われている言葉として受け取るのかによっても、違ったものになってきます。
受け取る側の違いということではなく、本来聖書は神の言葉として語られていますから、人間的価値観でその通りかどうかを判断するのではなくて、神様の語る真理となる知恵を聞くということになります。
例えば、箴言には、「魂を楽しませる知恵を得よ」というような事が書かれています。
これを一般的な道徳に当てはめて考えると、「人生を楽しむためには色々な能力を身につけよ」 と言ったことになるでしょう。
しかし、聖書の語る魂を楽しませる知恵は違います。
聖書はむしろ、イエス・キリストがそうであったように、人を赦し、平和と和解を選ぶことができる知恵を持つように語っています。自分が愛されるためではなく、「他者を愛すること」。
これこそが、「魂を楽しませる知恵を得よ」ということなのです。
箴言とは、聖書の中にある、一つの書巻のタイトルのことです。
箴言と言うタイトル通り、そこには教訓となる言葉がたくさん書かれています。
聖書の箴言をどなたが読んでも、なるほど、その通りだなあと、感じて頂ける言葉もたくさんあるのですが、これを、一般的な道徳のように受け取るのか、それともクリスチャンに対して言われている言葉として受け取るのかによっても、違ったものになってきます。
受け取る側の違いということではなく、本来聖書は神の言葉として語られていますから、人間的価値観でその通りかどうかを判断するのではなくて、神様の語る真理となる知恵を聞くということになります。
例えば、箴言には、「魂を楽しませる知恵を得よ」というような事が書かれています。
これを一般的な道徳に当てはめて考えると、「人生を楽しむためには色々な能力を身につけよ」 と言ったことになるでしょう。
しかし、聖書の語る魂を楽しませる知恵は違います。
聖書はむしろ、イエス・キリストがそうであったように、人を赦し、平和と和解を選ぶことができる知恵を持つように語っています。自分が愛されるためではなく、「他者を愛すること」。
これこそが、「魂を楽しませる知恵を得よ」ということなのです。
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