皆様、こんにちは。
夏のチェロ・コンサートのお知らせです。
今年は私達の教会でも過去2回コンサートを行い、とても好評であった黄原亮司さんをお招きしてのチェロ・コンサートを行います。
多くの方々になじみのある曲から、教会で聞くことのできる賛美曲まで、美しいチェロの音色をぜひお聞きください。普段教会でこのような演奏を聞く機会は余りないのではないでしょか。この特別な時間を共に過ごしませんか。壮大で、かつ繊細で、それでいて心が和む調べを一緒に楽しみましょう。
音楽は神様が与えて下さった素晴らしい贈り物です。その神様を褒め称える時にこそ、音楽は本当の輝きを現すのかもしれません。賛美を通して感じる神様の臨在を少しでも知っていただけたら幸いです。是非、その素晴らしい演奏と、神様があなたに与えようとしておられる祝福を感じてみてください。とても素晴らしいひと時となるでしょう。皆様のご来場をお待ちしております。
開催日時:2019年7月28日(日)、 14時開演(13:30開場)
2019年6月21日金曜日
2019年3月18日月曜日
愛が動機になっていますか
人との付き合いには様々なものがあります。
家族、親族、友達、近所、会社と様々で、それぞれの場所で付き合い方が異なることもあると思います。そして、そこには人間関係が生まれていきます。
全てがうまくいけばよいのですが、なかなかそうもいきません。時には、「もう、あの人のために何もしてあげたくない」とか、「同じ目に合わせてやりたい」とか、不満を持ってしまうこともあるかもしれません。正直、私自身も似たような思いを持ってしまうことがあります。
でも、ある出来事がありました。詳しくはお伝えしませんが、私がある人を何度助けていても、それを受け入れてもらえず、逆に不満を言われたりもしました。そこで、「人の痛みが分かる為にも、この人は一度痛い目にあった方が良いのではないか、この人を助けることは一度やめた方が良いのではないか」ということを怒りと共に考えてしまった時でした。
神様からの語り掛けが私にありました。それはこんな言葉です。「あなたのその考えは、愛が動機になっていますか?」私はその時はっとさせられました。この人のためにと口では言いながら、実際はその考えは怒りから来ている物に過ぎませんでした。愛が動機になっていますかと言う問いに対し、私はそうではなかったと気づかされたのです。
そして、心を鎮め、愛を動機として考え直した時、続けてその人のことを助けてあげることが良いと言う結論になりました。
この体験は今も私を正しい道へと導く助けになっています。
今自分が相手にしようとしていることは愛が動機になっているか。ただ単に正しいことだからとか、決まり事だから、当たり前だからと行動する前に、それは「愛が動機になっているか」と考えて見るのはいかがでしょうか。
家族、親族、友達、近所、会社と様々で、それぞれの場所で付き合い方が異なることもあると思います。そして、そこには人間関係が生まれていきます。
全てがうまくいけばよいのですが、なかなかそうもいきません。時には、「もう、あの人のために何もしてあげたくない」とか、「同じ目に合わせてやりたい」とか、不満を持ってしまうこともあるかもしれません。正直、私自身も似たような思いを持ってしまうことがあります。
でも、ある出来事がありました。詳しくはお伝えしませんが、私がある人を何度助けていても、それを受け入れてもらえず、逆に不満を言われたりもしました。そこで、「人の痛みが分かる為にも、この人は一度痛い目にあった方が良いのではないか、この人を助けることは一度やめた方が良いのではないか」ということを怒りと共に考えてしまった時でした。
神様からの語り掛けが私にありました。それはこんな言葉です。「あなたのその考えは、愛が動機になっていますか?」私はその時はっとさせられました。この人のためにと口では言いながら、実際はその考えは怒りから来ている物に過ぎませんでした。愛が動機になっていますかと言う問いに対し、私はそうではなかったと気づかされたのです。
そして、心を鎮め、愛を動機として考え直した時、続けてその人のことを助けてあげることが良いと言う結論になりました。
この体験は今も私を正しい道へと導く助けになっています。
今自分が相手にしようとしていることは愛が動機になっているか。ただ単に正しいことだからとか、決まり事だから、当たり前だからと行動する前に、それは「愛が動機になっているか」と考えて見るのはいかがでしょうか。
2018年12月7日金曜日
クリスマスメッセージ
ルカの福音書2章11節
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
皆さんは今まで、もう早く言いたくて仕方がなかったと言う時がありましたか。例えば初めて子供ができた時の妻は、夫がどんな顔をするだろうかと思いながら、早く子供ができたことを言いたくて仕方がないのではないかなと思います。
冒頭の聖書箇所は天使が野宿の番をしている羊飼いたちに「赤ちゃんが生まれましたよ」と告げ知らせる時の言葉です。おそらくこの時の天使も、もう早く言いたくて仕方がなかったと思うんですね。
イエス様がいよいよ生まれる、その時を待っていて、生まれる、生まれるよ、・・・・生まれた!と、この瞬間に天使が野宿をしていた羊飼いたちの所に輝き現れた。そして天使が言いたくて仕方がなかったことを喜んで告げ知らせます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」天使は喜びに満ち溢れたとっても美しい笑顔だったと思います。
この言いたくて仕方がなかったうれしい知らせは誰に届けられていると思いますか。立派な王様にでしょうか、誰からも愛されている人にでしょうか、それとも清らかな人にでしょうか。ここでは羊飼い達に知らせが届けられています。天使がずっと言いたくて、言いたくて、仕方がなかったこの言葉、喜んで伝えたかった言葉は羊飼いたちに届けられました。
なぜ羊飼いだったのでしょうか。羊飼いたちはどんな人でしょうか。彼らは貧しい人達でした。また、ずっと羊の番をしているので、礼拝をするという事などがなかなかできない人達でした。ですから、当時の羊飼いたちはユダヤ人社会の中でどのように見られていたかと言うと、無知な人、汚れているもの、罪人と言うように見られていました。
つまり、神様は心においても貧しい人たちに、罪人と言われている人たちにイエス様の誕生が知らさたという事なんですね。これは全ての人に伝えられているという事でもあるのです。
あなたがたのために、私達のために誰が生まれたのでしょうか。それは救い主です。救い主と言うと、私達を罪から救ってくださる方ということです。私には罪がないと本当に言える人は誰もいないでしょう。罪って認めたくないんですけれども、認めざるを得ない現実が自分の中にありますね。イエス・キリストのことを心から救い主と呼ぶためには、自分が罪人だと言う認識がなければなりません。私が罪人であり、神に敵対しているという認識があって、はじめて、この方はあなたにとっての救い主になります。
人はもし借金をするならば、そのお金を返さなければなりません。罪を犯すなら、その代価を支払わなければなりません。
聖書によりますと全ての人は罪人であって、私達は自分の持っている罪のために、罪の呪いのもとに生きなければならないのです。最終的には罪の代価は死ぬことです。私達は自分の罪のために死ななければならない者です。
罪の恐ろしさと言うのは、自分で自分を殺してしまうようなものです。私はダメだ、私は弱い、私は神様に愛される資格がない、誰にも愛されない、誰の役にも立たないと、こんな風に思い込んでしまう。これこそが罪による恐ろしい結果でもあります。
でも、今日、神様が知らせてくれたのは、神様がすべての人の罪を赦すため、全ての人の救い主としてこの地上に来られたことです。ご自分が十字架で死なれ、私達の代わりに血を流され、いのちを捨てて下さって、あなた方は自分を十字架に付けて苦しまなくていい、自分を恥じなくていい、自分を殺さなくていい。あなたは私によって豊かな命を得るのです、喜びの人生を生きていくのです、永遠のいのちを受けるのだと語ってくださるのです。イエス様はあなたを罪から救い、死の呪いから贖うために来た救い主です。
「この方こそ主キリストです。」
キリストとはなんでしょうか。キリストとはメシヤと呼ばれる救い主のことです。このメシヤというのは、たった一人だけに与えられる称号です。ローマ皇帝だとか、天皇だとか、総理大臣だとかは何代目と言うものが付きますが、メシヤ、キリストと呼べるのはたった一人だけです。つまり、唯一の救いは、唯一あなたを罪の呪いから救ってくれるのはイエス様お一人だけなんですね。
イエス様はあなたの身代わりとして十字架に掛かりました。そして死なれました。もしこの死があなたの為でなかったのなら、ただの無駄死にです。もしほかにも救われる道があったとするならば、イエス様の死は最も愚かで最も無駄な死です。でも、もしイエス様があなたの代わりに死んだのであれば、そしてそれによってあなたが救われたのであれば、イエス様以外に救いの道はありません。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は「今日」とおっしゃっているんですね。ここでの今日と言う意味、それは、すぐにとか、いまこの瞬間、神様の救いを信じたその瞬間なのです。
罪人が救われるまでに、長く待つ必要はありません。もっと良い人になってからでもない、もっと信仰を持ってからでもない、もっと修行してからでも、もっと熱心になってからでもない。キリストの救いを信じたあなたは今日救われる。キリストを受け入れたその瞬間にあなたは救われます。
神様はあなたを愛しています。そして、もし今日、心にイエス・キリストをお迎えしたいという思いをもって求めるなら、イエス様はあなたの心に来てくださいます。どうぞ恐れずに、あなたにいのちと救いと永遠の喜びを与えるイエス・キリストを心にお迎えしましょう。あなたがキリストに一歩近づこうと言う時に、神の今日が来ています。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
皆さんは今まで、もう早く言いたくて仕方がなかったと言う時がありましたか。例えば初めて子供ができた時の妻は、夫がどんな顔をするだろうかと思いながら、早く子供ができたことを言いたくて仕方がないのではないかなと思います。
冒頭の聖書箇所は天使が野宿の番をしている羊飼いたちに「赤ちゃんが生まれましたよ」と告げ知らせる時の言葉です。おそらくこの時の天使も、もう早く言いたくて仕方がなかったと思うんですね。
イエス様がいよいよ生まれる、その時を待っていて、生まれる、生まれるよ、・・・・生まれた!と、この瞬間に天使が野宿をしていた羊飼いたちの所に輝き現れた。そして天使が言いたくて仕方がなかったことを喜んで告げ知らせます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」天使は喜びに満ち溢れたとっても美しい笑顔だったと思います。
この言いたくて仕方がなかったうれしい知らせは誰に届けられていると思いますか。立派な王様にでしょうか、誰からも愛されている人にでしょうか、それとも清らかな人にでしょうか。ここでは羊飼い達に知らせが届けられています。天使がずっと言いたくて、言いたくて、仕方がなかったこの言葉、喜んで伝えたかった言葉は羊飼いたちに届けられました。
なぜ羊飼いだったのでしょうか。羊飼いたちはどんな人でしょうか。彼らは貧しい人達でした。また、ずっと羊の番をしているので、礼拝をするという事などがなかなかできない人達でした。ですから、当時の羊飼いたちはユダヤ人社会の中でどのように見られていたかと言うと、無知な人、汚れているもの、罪人と言うように見られていました。
つまり、神様は心においても貧しい人たちに、罪人と言われている人たちにイエス様の誕生が知らさたという事なんですね。これは全ての人に伝えられているという事でもあるのです。
あなたがたのために、私達のために誰が生まれたのでしょうか。それは救い主です。救い主と言うと、私達を罪から救ってくださる方ということです。私には罪がないと本当に言える人は誰もいないでしょう。罪って認めたくないんですけれども、認めざるを得ない現実が自分の中にありますね。イエス・キリストのことを心から救い主と呼ぶためには、自分が罪人だと言う認識がなければなりません。私が罪人であり、神に敵対しているという認識があって、はじめて、この方はあなたにとっての救い主になります。
人はもし借金をするならば、そのお金を返さなければなりません。罪を犯すなら、その代価を支払わなければなりません。
聖書によりますと全ての人は罪人であって、私達は自分の持っている罪のために、罪の呪いのもとに生きなければならないのです。最終的には罪の代価は死ぬことです。私達は自分の罪のために死ななければならない者です。
罪の恐ろしさと言うのは、自分で自分を殺してしまうようなものです。私はダメだ、私は弱い、私は神様に愛される資格がない、誰にも愛されない、誰の役にも立たないと、こんな風に思い込んでしまう。これこそが罪による恐ろしい結果でもあります。
でも、今日、神様が知らせてくれたのは、神様がすべての人の罪を赦すため、全ての人の救い主としてこの地上に来られたことです。ご自分が十字架で死なれ、私達の代わりに血を流され、いのちを捨てて下さって、あなた方は自分を十字架に付けて苦しまなくていい、自分を恥じなくていい、自分を殺さなくていい。あなたは私によって豊かな命を得るのです、喜びの人生を生きていくのです、永遠のいのちを受けるのだと語ってくださるのです。イエス様はあなたを罪から救い、死の呪いから贖うために来た救い主です。
「この方こそ主キリストです。」
キリストとはなんでしょうか。キリストとはメシヤと呼ばれる救い主のことです。このメシヤというのは、たった一人だけに与えられる称号です。ローマ皇帝だとか、天皇だとか、総理大臣だとかは何代目と言うものが付きますが、メシヤ、キリストと呼べるのはたった一人だけです。つまり、唯一の救いは、唯一あなたを罪の呪いから救ってくれるのはイエス様お一人だけなんですね。
イエス様はあなたの身代わりとして十字架に掛かりました。そして死なれました。もしこの死があなたの為でなかったのなら、ただの無駄死にです。もしほかにも救われる道があったとするならば、イエス様の死は最も愚かで最も無駄な死です。でも、もしイエス様があなたの代わりに死んだのであれば、そしてそれによってあなたが救われたのであれば、イエス様以外に救いの道はありません。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は「今日」とおっしゃっているんですね。ここでの今日と言う意味、それは、すぐにとか、いまこの瞬間、神様の救いを信じたその瞬間なのです。
罪人が救われるまでに、長く待つ必要はありません。もっと良い人になってからでもない、もっと信仰を持ってからでもない、もっと修行してからでも、もっと熱心になってからでもない。キリストの救いを信じたあなたは今日救われる。キリストを受け入れたその瞬間にあなたは救われます。
神様はあなたを愛しています。そして、もし今日、心にイエス・キリストをお迎えしたいという思いをもって求めるなら、イエス様はあなたの心に来てくださいます。どうぞ恐れずに、あなたにいのちと救いと永遠の喜びを与えるイエス・キリストを心にお迎えしましょう。あなたがキリストに一歩近づこうと言う時に、神の今日が来ています。
2018年11月7日水曜日
子育てセミナーの恵みの分かち合い
先日、私達の教会では「子育てセミナー」を行いました。そこで教えられたことを分かち合います。
東京基督教大学の先生をお招きして、発達心理学の視点からも乳児期から青年期までのそれぞれの発達の特徴を教えていただきながら、子育ての愛の伝え方まで知ることができるセミナーとなりました。
セミナーの内容を簡単に3つのことでご紹介します。
1)それぞれの時期に見られる発達の特徴は欠かせない過程であること
たとえば、第一次反抗期と言われている幼児期の態度であったり、ものを奪い合ったりしている姿は、心が健全に成長発達するために欠かせないことです。ですから、子供が泣きわめいたり、ぐずったりしている姿を見ながらも、健全に育っているんだなと思っていただければいいですよと親たちを励ましておられました。
また、もう一つ重要なこととして信頼関係があります。言葉による説得よりも話を聞いてあげることなどによって信頼関係を築くことが大切だという事でした。
2)子育ての原点は神からの愛によること
大切なのは「子供を愛するにはまず親が自分を愛することが重要」、「子供が自分は愛されている!と実感できること」です。
私は私でいいんだと言うにしても、それはなぜ?と問われた時に根拠がなければ答えに詰まります。子供を愛する時、かわいいから愛するのでしょうか?良い子だから愛するのでしょうか?そうではないはずです。どんな子でも愛することが親心ではないでしょうか。かといって、親も決して完ぺきではありません。そんな私達は本当の愛を体験する必要があるでしょう。本当の愛は神様に見ることができます。神様は私達のことを「あなたは高価で貴い」と言って愛してくださいます。この神様に愛されているからこそ、そこで初めて私は神様によって高価で貴い。神様に愛されているから私でいいのだと言うことができるでしょう。
また、この神様に愛されているという実感が私達に必要なように、子供達にも自分は愛されているという実感を与えることが大切です。
3)自分をケアする
子育てのことで悩んでいる方の中には、子供をつい激しく叱ってしまうと悩む方もおられるかもしれません。でも人間には感情があり、時にネガティブな感情は人間に危険を知らせるアラームの役割を果たしているのだそうです。そのため、怒りは自己防衛の一つにもなるのです。怒りを単に否定せず、自分を守る感情として向き合ってみて下さい。(ただし怒りが継続すると敵意に変わるので、要注意です)
必要以上に自分を責めず、感情の見方を良い方向に向かわせていく事も教えていただきました。
今回のセミナーでは子育てに関することだけに限らず、人間関係にも通じる基本的で大切なことを教えられた気がいたします。
子育て中の皆様も、是非参考になさってみてください。
東京基督教大学の先生をお招きして、発達心理学の視点からも乳児期から青年期までのそれぞれの発達の特徴を教えていただきながら、子育ての愛の伝え方まで知ることができるセミナーとなりました。
セミナーの内容を簡単に3つのことでご紹介します。
1)それぞれの時期に見られる発達の特徴は欠かせない過程であること
たとえば、第一次反抗期と言われている幼児期の態度であったり、ものを奪い合ったりしている姿は、心が健全に成長発達するために欠かせないことです。ですから、子供が泣きわめいたり、ぐずったりしている姿を見ながらも、健全に育っているんだなと思っていただければいいですよと親たちを励ましておられました。
また、もう一つ重要なこととして信頼関係があります。言葉による説得よりも話を聞いてあげることなどによって信頼関係を築くことが大切だという事でした。
2)子育ての原点は神からの愛によること
大切なのは「子供を愛するにはまず親が自分を愛することが重要」、「子供が自分は愛されている!と実感できること」です。
私は私でいいんだと言うにしても、それはなぜ?と問われた時に根拠がなければ答えに詰まります。子供を愛する時、かわいいから愛するのでしょうか?良い子だから愛するのでしょうか?そうではないはずです。どんな子でも愛することが親心ではないでしょうか。かといって、親も決して完ぺきではありません。そんな私達は本当の愛を体験する必要があるでしょう。本当の愛は神様に見ることができます。神様は私達のことを「あなたは高価で貴い」と言って愛してくださいます。この神様に愛されているからこそ、そこで初めて私は神様によって高価で貴い。神様に愛されているから私でいいのだと言うことができるでしょう。
また、この神様に愛されているという実感が私達に必要なように、子供達にも自分は愛されているという実感を与えることが大切です。
3)自分をケアする
子育てのことで悩んでいる方の中には、子供をつい激しく叱ってしまうと悩む方もおられるかもしれません。でも人間には感情があり、時にネガティブな感情は人間に危険を知らせるアラームの役割を果たしているのだそうです。そのため、怒りは自己防衛の一つにもなるのです。怒りを単に否定せず、自分を守る感情として向き合ってみて下さい。(ただし怒りが継続すると敵意に変わるので、要注意です)
必要以上に自分を責めず、感情の見方を良い方向に向かわせていく事も教えていただきました。
今回のセミナーでは子育てに関することだけに限らず、人間関係にも通じる基本的で大切なことを教えられた気がいたします。
子育て中の皆様も、是非参考になさってみてください。
2018年9月19日水曜日
2018 秋の子供お楽しみ会のお知らせ
子供お楽しみ会のお知らせです。
今回は食欲の秋と言うことで、子供たちの大好きな『コロッケ』をつくります。
色々な味や形のコロッケを一緒に作って、食べましょう。
星形、ハート形、人型? 味は野菜コロッケ、コーンコロッケ、カレーコロッケ?
それは来てのお楽しみ。
おいしいコロッケを一緒に作りましょう。
9月22日、午後2時からやってます。
神様に喜ばれること
今回も聖書の分かち合いをしていきます。
「ここに大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。」
これは聖書にある、ヨハネの福音書6章に出てくる一節の言葉ですが、今日はここに出てくる少年に関して分かち合っていきます。
ある日のことですが、人里離れたところで休んでおられるイエス様のところへ、たくさん群衆が集まって来ていました。それは男の人だけでも5千人であったとあります。夕方になり、イエス様は弟子たちに向かって「どこからパンを買ってきて、この人達に食べさせようか」と言われました。しかし、当然5千人のお腹を満たせるほどのパンの代金なんて誰も持ってはいません。これは本当に買ってくることを願ってのことではなくて、イエス様がこれから行われる奇跡のためでした。弟子たちは誰しもが現実を見て、無理だと思ったことでしょう。そんな中、一人の弟子アンデレが、一人の少年がパン5つと魚2匹を持っていたと告げます。それが冒頭の言葉です。
ちょっと想像してみますと、何千人もいるなかで、この少年だけが賢く夕ご飯も準備していたのかとは考えにくいものです。そうすると、食事を探していた弟子達をしり目に、大人たちの中には自分や家族の食べる分だけで精一杯だ、自分たちがちょっとおすそ分けをしたところで何にもならないだろうと考え、隠していた人もいたかもしれません。でもその中で、一人の少年はパンと魚を差し出します。
当然この少年も、自分の出した分でみんなが満腹になるなどとは考えてはいないでしょう。でも、この少年がどうしてパンと魚を差し出したかを考えていくと、「少しでもイエス様お役に立てれば」と考え、自分にできる精一杯のことをしたのではないでしょうか。
ここで私がふと思ったのは、「私にはこれだけしかないから、何もできない」と思うのではなく、「私は今、自分のできることをしよう」とする心を神様が喜んでくださるということでした。
人はつい他の人と自分とを比べてしまったり、 自分は大した力はないと嘆いてしまったりすることもあります。でも聖書を見れば、神様はそんな目で人を見たり、分け隔てたりすることはしていないと分かります。
神様にどんなことをしたら喜ばれるでしょうか。それは神様のために行うことは何でも喜ばれます。そして、「私は今、自分のできることをしよう」とする人を待っておられます。神様はその様な人を用いて、神様の素晴らしい働きが行われていく事でしょう。
「ここに大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。」
これは聖書にある、ヨハネの福音書6章に出てくる一節の言葉ですが、今日はここに出てくる少年に関して分かち合っていきます。
ある日のことですが、人里離れたところで休んでおられるイエス様のところへ、たくさん群衆が集まって来ていました。それは男の人だけでも5千人であったとあります。夕方になり、イエス様は弟子たちに向かって「どこからパンを買ってきて、この人達に食べさせようか」と言われました。しかし、当然5千人のお腹を満たせるほどのパンの代金なんて誰も持ってはいません。これは本当に買ってくることを願ってのことではなくて、イエス様がこれから行われる奇跡のためでした。弟子たちは誰しもが現実を見て、無理だと思ったことでしょう。そんな中、一人の弟子アンデレが、一人の少年がパン5つと魚2匹を持っていたと告げます。それが冒頭の言葉です。
ちょっと想像してみますと、何千人もいるなかで、この少年だけが賢く夕ご飯も準備していたのかとは考えにくいものです。そうすると、食事を探していた弟子達をしり目に、大人たちの中には自分や家族の食べる分だけで精一杯だ、自分たちがちょっとおすそ分けをしたところで何にもならないだろうと考え、隠していた人もいたかもしれません。でもその中で、一人の少年はパンと魚を差し出します。
当然この少年も、自分の出した分でみんなが満腹になるなどとは考えてはいないでしょう。でも、この少年がどうしてパンと魚を差し出したかを考えていくと、「少しでもイエス様お役に立てれば」と考え、自分にできる精一杯のことをしたのではないでしょうか。
ここで私がふと思ったのは、「私にはこれだけしかないから、何もできない」と思うのではなく、「私は今、自分のできることをしよう」とする心を神様が喜んでくださるということでした。
人はつい他の人と自分とを比べてしまったり、 自分は大した力はないと嘆いてしまったりすることもあります。でも聖書を見れば、神様はそんな目で人を見たり、分け隔てたりすることはしていないと分かります。
神様にどんなことをしたら喜ばれるでしょうか。それは神様のために行うことは何でも喜ばれます。そして、「私は今、自分のできることをしよう」とする人を待っておられます。神様はその様な人を用いて、神様の素晴らしい働きが行われていく事でしょう。
2018年8月22日水曜日
罪の利息
今日は私が日々読んでいる聖書の言葉の中で、ふと考えさせられたことをお分かちします。
今朝読んだ聖書箇所は、エゼキエル書18章でした。(聖書には創世記だとか、ヨハネの黙示録といった書簡があり、エゼキエル書はその一つです。)
その中にこんなことが書かれてありました。
「人が正しいものであるなら、公正と義を行う。・・・・利息を付けて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる。」
この18章はまず最初に、誰かが原因であなたの罪が問われるのではなく、あなた自身の行いに対して自分の罪が問われると言っています。ですから、確かに何かの原因で怒ったり、憎んだりすることはあるでしょうが、でも相手を憎むかどうかは自分自身の問題でもあります。その上で気に留めたのが、「利息を付けて貸さず、高利を取らず」という部分でした。
私はこの言葉を文脈から、私の持つ罪について考えさせられました。
私はいつまで誰かのことを憎み続けているのだろう。相手が犯した罪のことについて、いつまでも憎しみと言う利子を付け続け、相手が犯した罪以上の高利な償いを求めてしまうのだろうか、そんなことを考えさせられたのです。 この聖書の言葉はただ単に外側の行動のことを言っているのではなく、内面の、そして罪性のことについて問いかけている。そしてこのことは公正と義ではない私の罪性を浮き彫りにさせます。
聖書はさらに続けてこう書かれてあります。
「わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる。」
私達は自分の考えや人間的な正しさに頼るのであれば、人を赦し、愛することはできません。本当に正しく生きていくためには、私達はただ神様に従い、神の義に従って生きる必要があります。 それ以外にはありません。神を信じ従って生きる人が、神にあって正しいものとして罪赦され、必ず生きると言われます。
神様あなたに頼らせてください、正しく私を導いて下さいと今日も願います。
今朝読んだ聖書箇所は、エゼキエル書18章でした。(聖書には創世記だとか、ヨハネの黙示録といった書簡があり、エゼキエル書はその一つです。)
その中にこんなことが書かれてありました。
「人が正しいものであるなら、公正と義を行う。・・・・利息を付けて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる。」
この18章はまず最初に、誰かが原因であなたの罪が問われるのではなく、あなた自身の行いに対して自分の罪が問われると言っています。ですから、確かに何かの原因で怒ったり、憎んだりすることはあるでしょうが、でも相手を憎むかどうかは自分自身の問題でもあります。その上で気に留めたのが、「利息を付けて貸さず、高利を取らず」という部分でした。
私はこの言葉を文脈から、私の持つ罪について考えさせられました。
私はいつまで誰かのことを憎み続けているのだろう。相手が犯した罪のことについて、いつまでも憎しみと言う利子を付け続け、相手が犯した罪以上の高利な償いを求めてしまうのだろうか、そんなことを考えさせられたのです。 この聖書の言葉はただ単に外側の行動のことを言っているのではなく、内面の、そして罪性のことについて問いかけている。そしてこのことは公正と義ではない私の罪性を浮き彫りにさせます。
聖書はさらに続けてこう書かれてあります。
「わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる。」
私達は自分の考えや人間的な正しさに頼るのであれば、人を赦し、愛することはできません。本当に正しく生きていくためには、私達はただ神様に従い、神の義に従って生きる必要があります。 それ以外にはありません。神を信じ従って生きる人が、神にあって正しいものとして罪赦され、必ず生きると言われます。
神様あなたに頼らせてください、正しく私を導いて下さいと今日も願います。
登録:
投稿 (Atom)

